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2011年5月12日木曜日

評価される事について

なんかぼんやりと考えていること。

なんやろうなあ。

人の考えや意見って、何も形になっていないからといって、意味がないわけでも、無駄なわけでもないよなあ。


例えば、人を評価するときって、何をなしてきたかで、基本的に評価する。事例として、中途採用。中途採用って、おそらく、その人が何をしてきたか、何が出来るか、で判断するさなあ。まあそれは、それでいい。目に見えるものじゃないと、評価出来んし、わからんし。


他にも、俺は本を書きたいなあという思いがあって、ある知り合いの社会人の方に話をした。そして、言われたことは、「「若が本を書くのは自分のエゴで、君は何もやってきていない。何かを成し遂げて、書くのが一般的で、そうじゃないと誰も読まない。買わない。」」

ごもっともな意見だよなあ。俺も本が好きなので、小説以外の本を買うときに、後表紙にすぐむかって、その人の経歴をみて、買うという事をよく行う。なので、言われたことは、きちんと理解できているつもり。

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ただ、どうかなあと思うことがある。


1個めの中途採用の例でいうと、確かに何をなしたかで評価するのは、わかるんだけど、目に見えないものをなんとか評価出来ないかなあ。今の会社の仕組み的に、どうしても働くコマとしての人が必要なので、実績で評価するのはわかる。ばってん、そこだけで評価されると、もっと中身的にいい人や、目に見えないいいものを持っている人を潰していく可能性もあるよなあ。発展して、伸びる可能性があったにも関わらず。いい商品が開発出来たにも関わらず。


ってか、どの集団やグループにもおらん?なんか変なことやって、空気よくするやつとか、普段何もせんけど、気づいたらその集団にとても必要な人材になっていたりとか、その場の進行を促す上で必要になっていたりとか。その人は、数字として実績を残せなかったとして、仕事が出来ない人間だといえるのか。


2個めの本の例でいうと、確かに、俺は何もなしてないけんって、その意見を消したら、もったいなくないかなあ。それは俺に限った事ちゃうくて、色んな人にあてはまるような気がする。いい意見があって、もしかすると別の人がそれを実行して、すっごい物が出来た可能性はあるのに、たまたま、その実行する人がいなかったりして、生まれなかったり。

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まあこれらの思考は、いろいろな事から生まれているように感じる。自分を擁護するため、ユルタと北高校野球部にいて感じたこと、俺が生きて行くために必要なこと、その人と話をしたこと、なんかおかしいと思うこと、目にめないものが重要ちゃうかと感じていること、目に見えないものが好きなこと。

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まあ結局は、やっってみろ。って事になるけん、俺自身は出来るとこまでやってみるばってん、もっと、他人を上手く活かせんものかなあと思う。


後、いま思いついたので書くが、人の評価って、その本人がどう思うかが重要だよね。周りがどう思うかとかではなくて。確かに人を評価するときに、その人が何をなしたかでみるけど、いつになっても、例えば50歳になっても、その人が何をこれからなせるのか?って視点で見れたら、おもろいなあと思う。何をしてきたんですか?っていう質問ちゃうくて、これから何をするつもりですか?って質問いいやなあと思う。おそらく、いつかは目に見える形となって、誰かから評価されてり
すると思うし。

疲れたので、この辺で。

ちゃんちゃん。

1 件のコメント:

  1. 久しぶり。
    ブログ書いてるって聞いて覗いてみました。

    将来を評価するってのが投資だと思うけど、ここで書いてる視点は投資をしてもらう側の事しか書けてないんじゃない?相手に要求するのは簡単だけど、変えれるのは自分だけじゃないかな?
    大事なのは相手に求める事ではなくて、自分はどう出来るかじゃないんだろうか?自分がどういう投資が出来るか考えれると建設的な気がするけどな~
    良かったら読んでみて。
    http://rums.seesaa.net/article/227097723.html?1342251540

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